前回の記事で書いたように、北欧のスウェーデンは世界で唯一「女性の方が喫煙率が高い国」であります。確かに男性の「喫煙率」は17%(女性は21%)と世界トップクラスの低さを誇ります(誇る?)。

しかし「喫煙率」が低いからといって、「タバコ率」が低いわけではないようです。スウェーデン男性にはシガレット(紙巻タバコ)よりも、スヌース(嗅ぎタバコ)の方が人気が高いのです。

スウェーデン男性の21%、女性の4%がスヌースを毎日使用しているといいます。なんでも「あんまりお洒落じゃないから女性の人気がない」とかいうことのようです。

◆スヌースを探して町に飛び出した

三鷹で見つけた『アルカポネ・ミント』

タバコのことをああだのこうだのと書いているくせに今までスヌースを体験したことがなかったことを恥じて、早速こっそりと慌てて急いでゆっくりと近所のタバコ屋さんを訪ねました。私、生まれも育ちも東京都三鷹市なのですが、三鷹には『みわた』というタバコ屋さんがあっていつもお世話になっています。

シガレット(紙巻タバコ)、シャグ(手巻きタバコ)、シガー(葉巻)、パイプ、キセル、スナフ(嗅ぎタバコ)など扱っている商品が実に豊富で、もちろんスヌースもありました。

タバコ本来の味や香りを楽しみたいので、着香していないものがいいと思ったのですが、残念ながらレギュラータイプは売り切れ。メンソールタイプのものしかありませんでした。残念だのなんだのとごちゃごちゃ申しておりましたら、店長が『アルカポネ・ミント』というスヌースの試供品をくれました。ま、結局メンソールタイプなんですけど、ありがたく頂戴いたしました。

◆体験者は語る

では、スヌースの初体験レポートといきましょう。

 

紅茶のティーバッグのようなスヌース

粉状のタバコが紅茶のティーバッグのような不織布の袋に入っています。大きさは28mm×15mmで、ちょうどSDカードの半分のサイズでした。親指の爪くらいといった方がわかりやすいでしょうか。

パッケージには「一包を歯ぐきと頬の内側に挟んで下さい。味わいの強さは口腔内の水分量によります。」と、使用方法が書いてあります。

メンソールタイプは刺激が強くて歯茎がヒリヒリと痛い

唇を指で引っ張って、スヌースを上の歯の歯茎の奥に挟みました。メンソールタイプだからでしょう、ヒリヒリと刺激が強くて歯茎が痛いです。フリスクとか辛いミントのガムみたいな感じです。

女性が敬遠する理由がなんとなくわかります。唇がもっこり膨らんで鼻の下が伸びたような状態になるし、しゃべっている時にペロとスヌースが見えたらかっこ悪いです。

タバコの香りもするような気がしないでもないですが、ミント感が強いのでなんだかよくわかりません。味は、ぼんやりと甘いです。甘味料として漢方やお菓子でもよく使われる甘草(リコリス)が使用されているようです。砂糖とは違うこざっぱりした甘さです。

 

砂糖とは違うこざっぱりした甘草(リコリス)の甘さ

口の中の水分量によって味わいが強くなるということですが、スヌースに唾液が染みてくると甘みが強くなります。そして、メンソールのヒリヒリ感が炸裂しまして、こりゃたまらん、一旦中断です。噛んでるガムを口から出すような遣り場にこまる感じです。幾人か友人に試してもらったところ、半数くらいは最初の一分以内にリタイアしました。結構痛いんです。スヌースを挟む場所を替えて、下唇の歯茎に移したらこちらの方が敏感なようで激しく痛いです。

気を取り直してリトライしてみます。バーやレストランが全面禁煙のスウェーデンでは酒を飲みながらスヌースを使用するようなので、コーヒーを飲んでみました。コーヒーの水分に触れてスヌースから発揮される刺激がより一層強くなります。口が痛い余談ですが、ニコチンを摂取するとカフェインの代謝が早まるそうです。コーヒーを飲むとタバコが吸いたくなるのは生理的な欲求もあるみたいですね。

使用時間の目安はだいたい30分くらいだというのですが、まだ味がなくなったガムをいつまでも噛んでるような感じで、各々の好みで唇に挟んでいればよいもののようですが、注意書きにこう書いてあります。

・ 本製品はニコチンを含むタバコ製品です。絶対に飲み込まないで下さい。
・ 袋がやぶけている場合は使用しないで下さい。
・ 本製品の使用により気分が悪くなる等の症状が生じた場合には、すぐに使用を中止して下さい。

注意書きです

粘っていつまでも口の中に入れているとあまりいいことはなさそうですね。寝タバコで火事が起きるのと同様に、スヌースの誤飲でニコチンの急性中毒とかありそうです。40分くらして飽きたので口から出して捨てました。

◆嫌煙時代の救世主

スヌースを体験し終えた今、一番何がしたいかと聞かれたら迷わずこう答えます。

「タバコが吸いたい」

喫煙の目的が何かという問題ですが「ニコチンを摂取したい」というよりは「煙を吸い込みたい」ということのような気がします。もっと云えば喫煙というのは「手持ち無沙汰だから何か口にくわえていたい」ということのような気がします。

パイプや葉巻のように、煙を肺まで吸い込まない「口腔喫煙」を初めて体験した時にも同じようなことを思いました。私たち第二次世界大戦以降の世代は肺に煙を吸い込まないと満足感を得られない「シガレット世代」だと云っても間違いではないでしょう。

タバコはあくまで嗜好品なので、だらしない酒飲みのように「酔っぱらえればなんでもいい」というような下品な発想に陥らないようにしたいものですね。嗜好品はエレガントに楽しまなければ悪しき因習です。

副流煙による健康被害を理由に嫌煙ブームの昨今、スヌースはオルタナティヴな提案(代替案)として面白いのではないでしょうか。現にスウェーデンではシガレットよりもスヌースの方が人気があるわけです。煙の出ないスヌースは空気を汚さないので、冬の寒さの厳しい地域で重宝されるのは納得できます。

ニコチンパッチやニコレットで頑張って禁煙するくらいならば、スヌースという選択肢の方が遥かに豊かだと思いませんか?

またひとつ世界が広がりました。次回はもう少し掘り下げて、スヌースの健康被害に関する考察をお届けします。

▼原田卓馬(はらだ たくま)
1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。

ご意見ご感想、もしくはご質問などはtwitter@dabidebowie
このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

《紫煙革命13》世界の男女別喫煙率から見えてくるカラフルなタバコ・カルチャー
《紫煙革命12》実録!タバコ工場見学の巻(後編)
《紫煙革命11》実録!タバコ工場見学の巻(前編)
田中俊一委員長自宅アポなし直撃取材を終えて

いつも何度でも 福島を想え! 『NO NUKES voice』Vol.02

 

本コラムでも言及していた北星学園大学問題。田村信一学長が至極全うな声明を9月30日付声明を出して以来、同大学をめぐる状況はさらに悪化し、学外からの攻撃が激化した。一時は非常勤講師として勤務する元朝日新聞記者、植村隆氏の非常勤教員としての来年度契約を「結ぶのが難しい」と田村学長がこぼすまで状況は悪化していたが、同大学は英断を下した。

北星学園大学は12月17日付、北星学園大学理事長大山綱夫、北星学園大学学長田村信一両氏の連名で声明を発表した。詳細は北星学園大学のHPを参照されたいが、近年まれに見る格調の高さと、大学としての覚悟に満ちた歴史的とも言える内容だ。

◆「北星、ようがんばっとるやないか」では済まされない

この決断までには、紆余曲折があったことは既に報じられている。卑劣極まりない脅しや攻撃が北星学園大学だけでなく、植村隆氏さらにはそのご家族にまで及んでいた。安寧な生活が送れないほど植村氏の生活は脅かされていた。

大学の非常勤講師というと、名誉ある仕事であるように響くけれども、はっきり申し上げれば極めて給料の安い仕事である。90分講義を1コマ担当して、1か月2~4万円が相場だ。多くの有名大学在学生は「家庭教師」をすることにより、大学の非常勤講師よりもはるかに高い報酬を得ている。

しかし問題は金ではない。植村氏に対する卑劣な攻撃に対して、一時は腰が砕けそうになった北星学園大学が「この時代本当にそんなことがあるのか!」と驚くほどの勇気ある決断を理事長、学長が下した意味は非常に重い。

「決断」を示す文章が何をも「自負」したり、「構えて」いないことに更に頭が下がる。これまでの経緯を誠実に綴り、ブレがあったことを認めながらも最終的に植村氏の雇用継続に至ったことを包み隠さず語っている。

このような決断を前にすれば、その姿勢に賛辞を送り背中を押した人間達にもそれなりの責任が生じてくる。「北星、ようがんばっとるやないか」では済まされない。自らの名前を名乗る勇気も無い、しかしながら攻撃の手段を選ばない卑劣な輩たちは更に攻撃をエスカレートさせているに違いない。

孤立無援、苦境で戦う時、外部からの支援ほど力になるものは無い。理事長、学長が腹をくくったのだから、内部では議論があろうと頑張ってもらうしかない。幸い今日は誰でも気軽に応援する方法がいくらもある。応援の電話やメールは困難内部にいる人間に、勇気を与える。

私自身、かつて大学職員時代に大きな力で潰されかけた時、見知らぬ人からのメールにより、砕けそうになった心を取り戻し再度自分を奮い立たせることが出来た経験を思い出す。

私は暴虐の時代に決然とした姿勢を明らかにした北星学園大学に最大級の賛辞と賞賛、更に少ないけれどもカンパを送る。

◎関連記事?《大学異論11》「草の根ファシズム」の脅迫に抗した北星学園大学にエールを!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

速報!『革命バカ一代』塩見孝也氏が清瀬市議選に出馬へ!
「守る」ことの限界──「守る」から「獲得する」への転換を!
秘密保護法施行日の抗議活動を自粛した金沢弁護士会にその真相を聞いてみた
自民党の報道弾圧は10日施行の秘密保護法を後ろ盾にした恫喝の始まり

いつも何度でも福島を想う

 

中森明菜が自殺未遂事件を起こしてから、所属する芸能事務所、研音から独立に至るまでには、その背後で大人たちが綱引きを繰り広げていた。

◆メリー喜多川の意向で進んだ明菜の移籍先

中森明菜『LIAR』 (1989年4月ワーナー・パイオニア)

1989年7月11日、近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こした明菜は、しばらく病院に入院した。そして、退院3日前の8月2日、都内某所で関係者が集まって会談をした。出席者は、研音の花見赫(あきら)社長、ワーナーパイオニアの山本徳源社長、ジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長、それにメリーが連れてきたMMGレコードの小杉理宇造社長、音楽評論家の安倍寧の5人。

その席上、メリーは機先を制するように言った。

「あなた方、明菜の自殺の原因が何だか知っているんですか。山本さんの会社の社員のことをいっては何ですが、おたくの寺林さんが明菜を独立させようと画策したからなんですよ。寺林さんは事務所(研音)やスタイリストなどの悪口を明菜に吹き込み、人間不信になった明菜が自殺したんです」

会談はメリーのペースで進み、翌日、小杉社長が明菜を預かることが決まったという。

ワーナーパイオニアの制作本部長、寺林晁は確かに明菜と親しく、明菜の独立に向けた活動を進めていたらしい。自殺事件の2日前にも明菜と六本木で食事をし、「どうして私のマネージャーはくるくる辞めてしまうのか」「事務所に搾取されてしまうのではないか」といった相談に応じていたという。

研音は明菜が入院中、担当医に診断書を要求したが、明菜がそれを拒絶したというし、警察が明菜に事情聴取をした後で花見社長に対し「おたくの事務所はひどいらしいですね」と言ったという。

また、明菜の母親が「マネージャーにお金を騙し取られたのよ。億単位の金だったから、自殺するのは当たり前じゃない」と明かしていたという話もある。

同年12月31日に行われた「中森明菜復帰緊急記者会見」で明菜は、「自殺の原因は?」と聞かれ、「私が仕事をしていて、一番信頼していた人が、信頼できなくなったことです」と答えていた。

◆明菜に隠れて金を受け取っていた家族との決別

明菜は自殺未遂事件の後で家族と関係が悪化したが、その理由も研音に関わることだった。明菜が事件を起こして病院に運ばれたとき、駆けつけた父親が「事務所やレコード会社に謝れ!」と叱った。実は明菜の家族は、毎月100万円から200万円を研音から給料のような形でもらっていたが、明菜はそれを知らなかった。

「私に隠れてお金をもらって、それなのに死のうとまでした私を罵倒するなんて、私は絶対に親を許さない!」と言って明菜は怒り、家族と絶縁した。

確かに自殺未遂事件の前から明菜は研音に対する不信感を持っていたようだ。そして、それはメリーの思惑とも合致していた。当時、明菜は近藤と結婚したいという希望を持っており、その近藤をエサにすることでメリーは明菜をコントロールできる立場にあった。

近藤は翌年にデビュー10周年を控え、大事な時期だった。メリーとしては明菜の自殺未遂事件の原因を研音のせいにして、近藤は無関係ということにしたかった。メリーが「マッチの立場も考えてあげて」と言えば、明菜は何でも言うことを聞いた。

そして、メリーは明菜を研音から独立させ、自分の子飼いである小杉の事務所に所属させようと画策した。メリーにとっては、明菜が研音に預けているよりも、自分の周辺にいる方がコントロールしやすく都合がいい。また、自分とは別に明菜に接触し、独立をそそのかしていた寺林は邪魔な存在だったから、先の5者会談で「自殺の原因」として糾弾し、明菜利権から排除しようとしたのである。

メリーが連れてきた小杉は明菜にとっても、信用の置ける人間だった。小杉はかつてRCAレコードの社員として近藤のプロデュースをしたことがあった。明菜は近藤に熱を上げるあまり、近藤と接点があるというだけで人を信用する傾向があった。

大晦日の記者会見で明菜は「すてきなスタッフが一緒だったら、つらいことも耐えていけると思って頑張ります」と語っていたが、「すてきなスタッフ」というのは、小杉のことを指している。

◆移籍金で拗れ、人間不信に陥った明菜の孤独

だが、年末の記者会見の段階では確定していた、明菜が研音から独立し、小杉が預かるという路線は暗礁に乗り上げた。

まず、移籍金問題が明菜復帰を阻んでいるという報道があった。研音としては明菜を待っていても戻ってこないとあきらめたが、それでも明菜は「金のなる木」だ。「明菜が独立するなら、10億円を支払え」と研音側が小杉側に主張したという。その額は10億円とも言われ、レコード会社がこれを立て替えるという案も浮上した。

次いで出てきたのが、明菜の身元引受人だった小杉が明菜に手を焼いているという話だった。完全主義者で自己主張の強い明菜には小杉ももてあまし、「自分はもう手を引くから、研音でもう1度、明菜を引き取ってくれ。研音が明菜を引き取らないなら、4億円の移籍料で明菜を独立させたいが、どうだろうか」と打診したという。

こうしたトラブルも解消されたのか、90年2月23日、明菜のための新事務所である株式会社コレクションが登記された。ワーナー・パイオニアが9割を出資し、代表取締役は小杉の片腕とされる中山益孝社長で、明菜も取締役に名を連ねた。

だが、コレクションと明菜はうまくゆかず、91年、明菜は新しい事務所、コンティニューに移籍することとなった。当時、明菜と親しかった、フリーの番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、コンティニューは運営資金を明菜の移籍に際してビクターから支払われた3億5000万円に頼っていたが、経営陣は高級外車を何台も購入したり、必要以上に豪華な事務所を借りるなどして短期間のうちにそれをすべて使い果たし、明菜に支払われなければならない1億円のアーティスト料も支払わなかったという。結局、明菜はコンティニューとも喧嘩別れして、93年からMCAビクターがマネジメントの窓口も担うことになった。その後も明菜はレコード会社と芸能事務所を転々と渡り歩いた。

明菜が歌えば、CDが売れ、コンサートに大勢のファンが集まる。「金のなる木」である明菜には、様々な人間が群がり、たびたび騙した。次第に人間不信に陥った明菜は、人を寄せ付けなくなっていった。

そうした中で、明菜の芸能活動は低迷を続けた。2010年10月以降は、体調不良を理由に芸能活動を休止し、公の場に姿を現していない。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。
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中森明菜と松田聖子は、ともに80年代を代表する女性歌手であり、よく比較されてきた。

聖子がデビューしたのは80年。その2年後の82年に明菜はデビューした。2人は歌謡界で頂点を極め、ともに所属事務所から独立したが、独立後の芸能活動は対照的だった。

◆明菜を手土産に研音社長に就任した日本テレビのプロデューサー

「ファム・ファタル〔Femme Fatale〕」(1988年8月ワーナー・パイオニア)

明菜は81年、16歳の時、日本テレビの歌手オーディション番組『スター誕生!』に出場し、翌年、『スローモーション』でデビューした。

『スター誕生!』では合計11社の芸能事務所やレコード会社が獲得の意向を示すプラカードを上げ、記録的なオファー数だったという。その中から、明菜が選んだのは、研音だった。研音というと、今では大手事務所となったが、当時は有名タレントは一人もいなかった。明菜が研音を選んだのは、『スター誕生!』のプロデューサーが研音を推薦し、両親も「研音にしよう」と言ったためだという。

研音は笹川良一の日本船舶振興会と関係が深く、資金も潤沢だったという。明菜の家族は貧しかった。研音は多額の契約金を積んだのだろう。そして、明菜の研音入りと同時に日本テレビのプロデューサーだった花見赫(あきら)が研音の社長に就任した。明菜は研音への手土産のようなものだったと言われる。

◆1989年の自殺未遂事件──「だって、私は本当に死ぬつもりだった」

そして、デビューから7年目の89年に衝撃的な事件が起きた。同年7月11日、明菜は当時交際していた歌手の近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂事件を起こしたのだった。

明菜はデビュー直後、17歳の時から近藤と交際し、7年間、同棲していた。89年1月23日、2人はパリで家具を購入しているところを目撃されていた。その後、2人はハワイに移動し、明菜だけが一人で帰国し、近藤はニューヨークに渡った。その頃、ニューヨークには、全米デビューの準備をしていた聖子がいた。

聖子が宿泊していたパークレーンホテルのワンブロック離れたところに、あまり日本人が利用しないエールフランスのホテルがあった。そこで2月2日、3日とかけて聖子と近藤が密会しているところを写真週刊誌に撮られてしまった。

明菜はこれにショックを受け、体重が36キロにまでやせてしまったという。明菜が自殺未遂を起こしたのは、聖子と近藤の密会報道の3ヶ月後のことだった。

一時、明菜と親しくしていた元番組ディレクター、木村恵子の暴露本『中森明菜 哀しい性』(講談社)によれば、明菜は「だって、私は本当に死ぬつもりだったし、彼とは七年間もずっと一緒にいたから」と、いつも繰り返していたという。明菜の自殺未遂事件は、巷間で言われているように近藤との関係に思い悩んだ末に起きたものだと考えられる。

◆大晦日の謝罪会見──明菜は近藤との婚約発表だと思っていた

この時期、明菜の主導権を握っていたのは、ジャニーズ事務所の副社長、 メリー喜多川だった。明菜は事件の後も近藤との結婚を望んでいたから、近藤が所属するジャニーズ事務所との関係を良好なものにしたいと考えていた。近藤と結婚するためには、メリーに気に入られなくてはならない。

自殺未遂事件直後の7月27日、ジャニーズ事務所はマスコミ各社に明菜がメリーに送った手紙を公開した。その中で明菜は、「自分勝手な行動を取ってしまったと反省しています。今度の事は近藤さんにはまったく関係ありません」と述べている。その翌日、近藤のコンサートがあった。

そして、暮れも押し迫った頃、「婚約発表をするから、マッチと一緒にテレビに出てくれ」というオファーが明菜の元に舞い込んできた。電話で連絡していた近藤からも、同じ趣旨のことを言われた。

12月31日、すっかり舞い上がった明菜はめかし込んで記者会見に出かけていった。だが、会場に行ってみると、婚約発表ではなく、近藤に対する謝罪会見だと知らされた。会見で明菜は訳も分からず、近藤への謝罪の言葉を口にさせられた。

明菜に自殺未遂事件を起こされて以来、近藤に対する風当たりは強く、芸能活動も振るわなかった。それを何とか挽回したいと考えたメリーは、明菜の自殺未遂事件と近藤を切り離すべく、あの手この手を使って工作を仕掛けていたのである。

そして、自殺未遂事件から、「みそぎ会見」に至るのとほぼ同時期に明菜の独立騒動が持ち上がっていた。(続く)

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか?』

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南野陽子──聖子独立直後の業界圧力に翻弄されたスケバン刑事

松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説

堀ちえみ──ホリプロから離れ、大阪拠点で芸能界に復帰

薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇

《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

前回の記事で紹介した松田聖子の独立の直後に起きたのが南野陽子の独立だった。

スケバン刑事 (1985年フジテレビ)

南野は、1985年に『恥ずかしすぎて』で歌手デビューし、同年11月から『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』(フジテレビ)で主役の2代目麻宮サキを演じ、トップアイドルとなった。

◆大御所=都倉俊一に口説かれアイドルの道へ

南野はもともと劇団青年座に所属していたが、作曲家の都倉俊一が「アイドルとして育てたい」と口説き落とし、テレビ番組制作会社大手の東通や大手広告代理店と組み、南野を売り出すためにエスワンカンパニーを設立し、当初は自ら代表取締役となっていた。

ところが、南野は89年5月末にエスワンカンパニーに対し、8月末の契約切れと同時に独立を希望する内容証明を送付したことから、独立騒動が表面化した。
当時の報道によれば、南野が独立を思い至ったのはスタッフへの不信があったという。スタッフがスケジュールの調整をミスしてドラマ出演を断念せざるを得なくなったり、南の自身がテレビ局に謝罪することさえあったという。また、南野は事務所から言われた通りにアイドルをすることにも不満を募らせており、もっとクリエイティブな仕事を志向していたという話もあった。

当時のエスワンカンパニーの売上は11億5000億円程度とされていたが、そのうちの98%はトップアイドルだった南野関連であり、南野に独立されてしまえば、会社は存亡の危機を迎える。また、同社は「南野の売り出しのために1億5000万円を投資したが、まだ回収していない」という主張もしていた。これもタレントの独立騒動でよく出てくる話だが、「売り出し費用」なるものが一体いかなるものなのかまともに説明されたことはない。

◆聖子独立騒動直後で危機感を募らせた音事協

デビュー曲『恥ずかしすぎて』 は南野陽子18歳の誕生日6月23日に発売された(1985年CBSソニー)

『週刊大衆』(89年9月18日号)に、南野の独立に絡めて、音事協(日本音楽事業者協会)を代表して廣済堂プロダクション社長の長良じゅんがコメントを出している。

「最近のアイドルは“お行儀”が悪いですよ。最初は両親ともどもやってきて、手をついて頼み込むくせに、ちょっと売れるとこれだもの。そのときの模様をテープにでもとって、聞かせてやりたいくらいですよ。
(中略)
アイドルたちにはいい先輩というか、いいスタッフがいないね。マネジャーも彼らをしつけることができないんだ。昔でいう“修身”がなってないんですよ。私としても“冗談じゃない”という感じです。独立すれば当然、敵だって増えるでしょう。それを覚悟でやるんでしょうけど……」

南野の独立騒動が発覚する直前には松田聖子の独立騒動があっただけに、音事協は危機感を募らせていた。独立の動きが他のタレントに広まらないよう、独立を主張する南野を業界から締め出すことを検討した。マスコミも音事協サイドの意向をくみ取り、南野について「独立はワガママ」「松田聖子のマネ」と強く非難した。

◆一度は独立撤回を余儀なくされた南野

音事協のプレッシャーがモノを言ったのか、南野は独立を撤回し、8月29日のコンサートで「独立はしません」とコメントを出した。

報道によれば、音楽出版権の譲渡問題や独立料で折り合いがつかなかったとか、独立の後ろ盾になると見られていたCBSソニーが手を引いたためという話が取り沙汰された。

当初、南野は、いきなり独立するのではなく、まず所属レコード会社のCBSソニーに預かってもらうという予定を立てていたという。

松田聖子の独立でもCBSソニーが後ろ盾になっていたから、南野もそれと同じ方式で独立したかったのだろう。だが、立て続けにCBSソニーがタレントの独立に加勢するとなると、音事協サイドが反発する。CBSソニーが南野の受け入れを拒否したのは、そうした背景があったのかもしれない。

事態は収束したかに見えたが、南野は90年になって独立を果たし、個人事務所、サザンフィールドを設立した。この独立は報道もされず、音事協黙認していたという。サザンフィールドの取締役には、エスワンカンパニーの舘彰夫社長が就任しているから手打ちがあったのだろうか。

だが、歌手としての南野の人気は下降線をたどり、92年には歌手活動を休止することになった。その後、女優業に本腰を入れるためにケイダッシュに移籍している。

◆堤清二まで仲裁に入った南野ケイダッシュ移籍の真相とは?

南野のケイダッシュへの移籍については、『噂の真相』(2003年12月号)で触れられている。

当時、南野は音楽面でビーインググループのバックアップを受けていたが、ビーイングと敵対していたケイダッシュがそれを快く思わず、南野をドラマから排除していたという。この時、南野と家族ぐるみで付き合いのあったテレビ朝日のプロデューサーだった皇達也とセゾングループの堤清二が仲裁に入り、南野のケイダッシュ入りが決まった。

どうして、ケイダッシュはビーイングを目の敵にしていたのか。同誌の解説によれば、ケイダッシュの会長、川村龍夫は、所属女優だった高樹沙耶がビーイング代表の長戸大幸と交際していることを聞いて激怒したのが発端だったという。そして、「川村は飯倉のキャンティで長戸を捕まえ、トイレに連れ込んでボコボコにしたそうです。目撃者もかなりいたんですが、長戸はよほど強烈に脅されたのか、かたくなに『自分で転んだ』と言い張ってましたよ」という「ベテラン芸能記者」のコメントを紹介している。

タレントの盛衰は、タレントの能力以前に「政治力」で語られることが多い。つまり「バックはどこなのか?」ということだが、それは日本の芸能文化の発展に資するものではない。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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《脱法芸能25》松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
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《脱法芸能23》八代亜紀──男と共に乗り越えた演歌という名のブルーノート
《脱法芸能22》薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇

芸能界を震撼させた真実の書!『芸能人はなぜ干されるのか?』

 

やはり、そうだったのかと得心した。消息筋によると、元赤軍派議長で現在駐車場管理人を勤める塩見孝也氏(73)が来年行われる東京都清瀬市の市会議員選挙に出馬の意向であることが明らかになった。塩見氏が11月に鹿砦社から『革命バカ一代 たかが駐車場、されど駐車場』を出版したことは以前の記事で触れた。また11月9日に私自身初めて同氏にお会いしたことにも言及した。その時既に「何かやるんじゃないだろうか、この人は・・・」の予感はあった。

が、ご当人の口からは具体的な内容の話はなかったので私の感触に留めておくこととし、記事内での明言は避けた。しかし塩見氏は「議会制民主主義」の中、その最も身近な場所からとはいえ、自身が「政治」の場に身を進める決断を下したそうだ。同氏は先週都内で行われた会合で「国政や、県政に臨む力はないし、まだ早い。でも地方からの変化が必要だ」と語り、市議選への出馬を明言したという。

「たかが市会議員」と侮ってはいけない。全国の市会議員の大半は地域ボスだったり、土建屋の公共事業調整役、はたまた何もしないでひたすら歳費を貪る輩だが、中には1人で市の行政を市長かと見まがうほどに動かしている実力者もいるのだ。ただし、それには相応の行政知識や思想行動力が必要であることは言うまでもない。塩見氏がどんな活躍を見せてくれるか、清瀬市には要注目だ(当選を前提の話だが)。

私は塩見氏の市議選挙出馬をある種の驚きと、逆に納得を持って受け止めている。かつて「革命」を指向し「日本のレーニン」とまで呼ばれた人物が73歳にもなって(ご本人には失礼!)まさか地域の選挙に出るのかとの思いは多くの人共通の驚きだろう。一方ご本人と話をして、『革命バカ一代』を読めば「このままこの人おとなしくしてるんだろうか」との意気込みが嫌でものしかかってくる。勿論往時の体力はないし、「世界革命を!」とは主張されないだろうけども、今日の惨憺たる政治状況に喝を入れる起爆剤になるに違いない。

気が早いが来年の清瀬市会議員選挙の際には清瀬市にぜひご注目を!

塩見孝也氏

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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絶賛の嵐!『革命バカ一代 たかが駐車場、されど駐車場』

 

数えられるくらいしかまともに出席しなかった大学時代の講義。マスプロ教室での詰め込みと講義内容の中くだらなさを理由に大いにさぼっていた。気まぐれだったか、友人に誘われてだったか定かではないが差別問題を扱う講義に出席した時のことだ。履修登録者の数は数十名はいるだろうに、教室には学生が4名だけだった。

講師の先生は非常勤の方で、関西の部落解放運動に関わっていて、かつ身体障害を持った方だった。こちらはたった4名出席者だった。嫌でも先生の鋭い視線から逃げられない。でもそんな状況とは関係なく、その先生が日本の戦後社会状況を俯瞰的に語った内容を今でも明確に記憶している。大学講義の中でこれほど明晰に記憶している場面は他にない。

「革新陣営はいつも『守る』ことにことさらこだわり過ぎではなかったのか。憲法を、人権を、平和を『守る』とみんな語る。それらは十分に満足すべき状況なのか? 今日的な危機の根本は変革を求める側が『変える』のではなく『守る』ことに足場をおいたことに端を発するのではないか」

◆「守る」だけでは勝てはしない

この講義を聞いたのは80年代半ばだが、こう語られた先生の言葉を今、当時より実感をもって首肯できるような気がする。「守る」ことが悪いわけではないけれども、「守って」いるだけでは決して勝負に勝つことは出来ない。長時間守備にばかりついていれば、いずれ隙を作り攻撃側に得点を与える。こちらも得点を得なければ。得点を得るためには「攻撃」をしかけなければ。

戦争を露骨に指向する悪辣な自民党の改憲案には平和主義の立場から、憲法(とりわけ9条)を「守り」たいという心境が働くのはごくごく自然なことではある。しかし「守る」だけで勝てはしない。

しかもこの改憲攻撃には一理ある。護憲派は前文から始まる憲法を総体として好感するあまり、前文と9条の間に挟まれた第一章、1条から8条、すなわち「天皇制」の問題、この憲法に凡そ決定的な不協調として無理矢理に押し込まれたような「天皇制」を軽くとらえ過ぎてきたのではないか。憲法前文の中に「天皇」の文字はない。「詔勅」という一文字がほのかにそれを想像させるだけだ。。前文と直接に呼応するのは2章以降の9条であり、21条で、その他の多くの条文もそれに次いで前文と意味のやり取りが成立する。が、1条から8条はどう読んでも全文精神との親和性を持たない。だから、自民党の改憲案は全文を含めて憲法を変えようとしているのだ。

憲法前文(またはその精神)や「9条」を具現化したいと考えるのであれば、「1条から8条まではこの憲法にそぐわない」との論理が成立してもおかしくないのではないか。と、今さら知らないふりをしているのではない。何も私が今頃言い返すまでもなく、そのような議論は何十年も前からあったことは承知している。護憲派はそれは腹に収めた上で、最大公約数的に「9条」を「象徴」として護憲を語りそれを「守る」活動を続けてきたのだろう。

◆「守る」姿勢を構えたのが間違いだった

「わかってるよ、でもな」と面倒くさがられながら「私は改憲派だ」と憲法が話題になる度にぼそっと語ってきた。冒頭紹介した大学時代に聞いた講義の影響が多少はあったように思う。「でも、お前、前文や9条には賛成なんやろ? 天皇制反対ってそりゃこっちの多数はそうやがな、やけど、そんなこと言い出したら混乱するから改憲なんて言わへんだけや」昔はたいていそんな風に叱られた。が、状況ここにいたって、やはり「守り」に徹してきた(そうでなく攻撃をしかけた陣営もあるけども)護憲派の多数は圧倒的に押しまくられている。

憲法も、人権も、平和も、生存権もこの国では、歴史的に時限付きで与えられたものだったのじゃないだろうか。少なくとも私たちの世代はより豊かな社会を獲得するためにそれなりの力を注いだといえるだろうか。80年代以降は60年代、70年代の遺産と預金で辛うじて生き延びてきたのではないか。与えられたものを「守る」ことには無意識に賛成していた。でも「守り」、「保つ」社会的態度は「保守」という言葉に置き換えられなくはないか。

再度、大学時代の講義である。先生はさすがに「保守」という言葉までは引っ張り出さなかった。ましてや「反動」を匂わせることも。でも彼は喉元までそれが出かかっていたと感じた。私なりに推測すれば彼の本音はこうだ。

「戦後革新運動の一部方針に誤りがあった。『守る』姿勢を構えたのが間違いだった。そこから敗北は始まった」

解釈改憲、原発、特定秘密保護法、戦争、消費税値上げ、沖縄の米軍基地・・・それらに反対する勢力の共通の弱点が、実は「守る」こと(あるいは言葉)に依拠していることではないだろうか。

見渡してみればもう「守る」ものなどほぼ実質的に奪われつくしているじゃないか。これから益々寒風の吹きさらす時代が進むだろう。「守る」から「獲得する」へと転換を、と言っても遅すぎる気がしないでもないが、絶望よりははるかにましだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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こんにちは原田卓馬です。日々、紫煙革命の記事のネタ探しでタバコのことを調べています。最近、世界各国の喫煙率の統計を眺めていたら面白い発見がありましたので、こちらで紹介します。

まずは日本の喫煙率からいってみよう!

JT全国喫煙者率調査

『JT全国喫煙者率調査』によると、
日本の昭和40年(1965年)の男女別喫煙率は、
男性 82.3 %
女性 15.7 %

日本の平成26年(2014年)男女別喫煙率
男性 30.3 %
女性 9.8 %

ということであります。仮に日本の人口の男女比が1:1だとして、男女別喫煙率を足して2で割ると、
日本の1965年の喫煙率 49%
日本の2014年の喫煙率 20%

50年前までは2人に1人が喫煙者だった日本において、「たったの半世紀で5人に1人までに減った」ということです。ここで面白いのは男性の場合、年々右肩下がりで喫煙率が減少しているのに比べて、女性の喫煙率は減少傾向にはあるものの、10%台で緩やかに推移しているということだ。

次に世界の喫煙率を見比べてみよう!

◆鉄則1=漢字文化圏は女性喫煙率が低い

『OECD Health data 2012』によるとOECD加盟国の中で、男性喫煙率が最も高い国は韓国。そして女性喫煙率が最も低い国も韓国。韓国は儒教の影響で「目上の人の前ではタバコを吸わない」、「酒は三度勧められるまで飲まない」そんな風習があるといいますね。

『OECD Health data 2012』OECD

(この表には掲載されていませんが)中国も男女喫煙率の傾向が韓国とよく似ています。

日本でも一昔前だと、「娘が人前でタバコを吸うなんて、はしたない!」なんて時代がありましたし、現在もそういう考え方は根強く残っています。

シンガポールも女性喫煙率が低いようです。ものすごおーーーーく、大雑把に「漢字文化圏=儒教文化圏」と考えると納得がいきそうです。男性優位の社会における女性の喫煙率は低いようです。

他にも世界各国の喫煙率を見ると、アジア・アフリカで女性喫煙率が低いことがわかりました。

◆鉄則2=プロテスタントの国は喫煙率の男女差が少ない

キリスト教の国でも、カトリック教徒の多いイタリア、スペイン、ポルトガル、南米だと喫煙率に男女差がある傾向のようです。

対してプロテスタントの多いイギリス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、アイスランドなどでは比較的に喫煙率の男女差が少ない傾向にあるようです。

特に顕著なのがスウェーデン、アイスランド、ノルウェー、デンマークです。北欧には喫煙率男女差が全くないと言い切ってもいいのではないでしょうか!(ちょっと待て、フィンランドはどうした?)

やはりプロテスタントは集団礼賛のような儀式よりも、個人を尊ぶようですね。男に生まれようが女に生まれようが、神のもとに皆平等であるということでしょうか。思わず『プロテスタントの男女別喫煙率から考えるジェンダー論』みたいな論文が書きたくなってきました。

◆例外=スウェーデンでは女性喫煙率が男性より高い

喫煙率ランキングで必ず紹介されるスウェーデン。男性喫煙率は低さは世界トップクラスで、統計の時期や方法で違いは出るが17%という数字がよく使われている。それに比べ、女性喫煙率は22%と男性よりも高い。
世界各国の喫煙統計の中にある例外中の例外!

スウェーデンでは2005年6月1日以降、禁煙法が施行され、全てのバー、レストラン、カフェ、ホテルなどの公共の場で全面禁煙となっているようであります。

「今夜、すべてのバーで、、、禁煙だと!」中島らもがモンドリ打ちながらわめき散らしそうな法律である。(アメリカの約半数の州やアイルランドなどでは同様の法律がある)

確かにスウェーデンの喫煙率は低いです。しかし、喫煙率が低いからと言って、タバコ人口が少ないわけではないのです。タバコとは、燃やして吸うだけが全てではありません。粉状のタバコを鼻から吸い込んで鼻腔粘膜から吸収する『嗅ぎタバコ(スナッフ)』、口の中でクチュクチュ噛んで口腔粘膜から直接タバコを吸収する『噛みタバコ』など色々あります。かつて、イギリスの貴族や中国の金持ちの社交界では、いかにかっこよく嗅ぎタバコを吸い込むかがステータスになったといいます。

そもそもシガレットが世界的に普及する第一次世界大戦まで、スウェーデンでは『スヌース』(SNUS)と呼ばれる嗅ぎタバコが主流だったようです。紅茶のティーバッグを小さくしたような袋に入った粉状のタバコを歯茎と唇の間に挟んでニコチンを経皮摂取するので、どちらかといえば噛みタバコと呼んだ方が正確なような気がしますが、慣例で嗅ぎタバコという言い方をするようです。

sweden_snus

 

この表を見るとよくわかりますが、スウェーデンでは第二次世界大戦終了の1945年以降シガレットの消費量が急増し、それに伴ってスヌースの消費量が徐々に減ります。世界的なシガレットブームの時代です。ところが1970年代に入ると再びスヌース人気が追い上げを見せて、90年代にはスヌースがシガレットの消費を上回ります。私はスウェーデンには行ったことないし、スウェディッシュのお友達もいないので何があったのかまったくあわかりませんが、日本でキセル文化が復興したようなものだと考えると、わくわくして踊りだしてしまいそうです。

私、紫煙革命で喫煙文化のあれこれを見つめる中で「世界各地の様々なタバコ文化の独自性が維持された方が、世界がカラフルで楽しい!」っていうことが言いたかったような気がします。どういう事情でスウェーデンのスヌースが復興したのか大変気になりますので、スヌースデビューしてみます!

次週、スウェーデンのタバコ文化『スヌース』に挑戦する!

▼原田卓馬(はらだ たくま)
1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。
ご意見ご感想、もしくはご質問などは
twitter@dabidebowie
このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

◎原田卓馬の《紫煙革命11》実録!タバコ工場見学の巻(前編)
◎原田卓馬の《紫煙革命12》実録!タバコ工場見学の巻(後編)
田中俊一委員長自宅アポなし直撃取材を終えて

今日の電気も原発ゼロ!『NO NUKES voice』Vol.02

 

極寒の中、投票日を迎えた総選挙の結果劇的だった。低投票率が懸念されたが最終投票率は80%を超え、史上最高を記録した。自公が200も議席を減らすとはどのメディアも予想しなかったし、私だってまさかと思っていた。事前の新聞報道では「自民単独で300超えも」とか「自公安定多数確定」などの見出しが躍り、連日これでもか、これでもかと与党有利の報道が続いていたが、あれはやはり自民党に恫喝された報道機関が泣く泣く世論誘導に協力させられていたのだろう。

選挙期間中に特別秘密保護後法が施行されたり、何とも嫌な雰囲気ではあった。「この国も本当に終わるのかな」と暗い気分になってはいたけれども、まだこの国の有権者は捨てたもんじゃない。理性と良心が勝利したということだろう。今後の焦点は連立の組み合わせがどう進むかだ。意外にも議席数を復活させた「民主」が政権の中核を担うことにはなろうが、前回国民を無視した「原発再稼働」や「消費税引き上げ」と言った裏切りを行ったことの愚を猛省して運営にあたって欲しい。

全員当選の「生活」と「社民」の発言力も無視はできまい。「民主」は今回積極的に「維新」と選挙協力を進めたが、「維新」は連立に入らないと既に表明している。またしても橋下は江田と共同代表として意見が合わないらしい。近く「維新」は解党になるだろう。橋下の自爆はもとより想像できたことであるので驚きはない。

60議席を獲得した「共産」が連立に加わることへ前向きな意向だ。「自社さ」政権を超える「民主」から「共産」まで幅広い大連立政権の調整が政権運営のカギになるだろう。日本版「オリーブの木」は何と命名されるだろうか。

原発の再稼働・推進勢力は絶対少数になった。民主党内の「連合」密着議員も、ここにきて「原子力村との決別宣言」を発表した。安倍政権横暴の象徴「解釈改憲」は組閣後速やかに取り消されることが、連立政権参加予定各党党首の会談でいち早く同意をみたことが明らかになった。特定秘密保護法案は施行を一時止めて、法律自体の破棄も含めて議論が始まるらしい。

何より喜ばしいのは東京電力を倒産させ資産を整理し、被災者への賠償と避難を早急に行うことで各党が一致したことだ。東電幹部の私有財産や天下り先へも債権の取り立てを行うらしい。これで原発事故被害者の方々には遅きに失したといえようやく手が差し伸べられるだろう。捻出できる東電関連資産の合計は8兆円近いという。派遣法の見直し(廃止)と、TPP不参加についてもほぼ同意が固まったようだ。今朝の報道では、名護市辺野古周辺から防衛施設庁と海上保安庁の職員の姿が消えたという。

一部議員の間からは「消費税廃止法案」の提案が議論になっているそうだ。所得税の累進課税最高税率を75%へ引き上げれば、消費税は不要とのシンクタンクの試算がある。自民党と経団連が主張していた「法人税」の引き下げは白紙見直しとなるそうだ。

超党派の「奨学金を考える議員連盟」は現在、日本学生機構が行っている有利子の「2種」奨学金の全廃を実現すると表明した。代わりに成績優秀かつ経済的に困難な学生には返還不要な「給付奨学金」を2万人の枠確保することを目的に、臨時国会で早くも議員立法として提出する。

一方「自民」は選挙敗北の責任を取って、安倍が党総裁の辞任を明らかにした。「この道しかない」道は故郷山口へ帰る一方通行の道だった。安倍は政界引退をほのめかすコメントも口にしている。「お腹がいたい」そうだ。

「産まないほうが悪い」とまたしても本音を吐露し総叩きにあった麻生も「総理までやってみたが、正直面白くなかったのでこれからは趣味の漫画を中心に福岡で活動したい」と発言。まずは自身の蔵書(マンガ)を中心に漫画喫茶「ア・ソウ」を始めるという。身の丈を知るとはこのことを言うのだろう。

おやじの横暴が乗り移り、放射性廃棄物の中間(実際は「最終」)処分施設について「最後は金目でしょ」と発言した石原伸晃はまさかの落選にうなだれ、記者会見にも姿を見せなかった。さすが環境大臣を歴任しただけのことはある。空気は読めるらしい。

法務大臣として11人の死刑執行命令に署名した谷垣禎一は、日弁連から「殺人罪」で告発され、落選を嘆く間もなく、今朝身柄を検察庁に拘束された。元法務省が職責により逮捕されるのは異例中の異例であるが、検察幹部は「いくら合法と主張されても11名の命を奪う行為は正当化できない。国連の勧告もあるので」と語っている。

予想もしなかった方向にこの国が変わりつつあるのかもしれない。

人間には夢がある。夢を実現する力もある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

秘密保護法施行日の抗議活動を自粛した金沢弁護士会にその真相を聞いてみた
自民党の報道弾圧は10日施行の秘密保護法を後ろ盾にした恫喝の始まり
読売「性奴隷表記謝罪」と安倍2002年早大発言が歴史と憲法を愚弄する

『ジャニーズ50年史』(2014年12月鹿砦社)

このほど鹿砦社より、日本の男性アイドル市場に君臨するジャニーズ事務所の歴史を採り上げた『ジャニーズ50年史 モンスター芸能事務所の光と影』(ジャニーズ研究会=編著)が刊行された。

早速、拝読したが、読み応えは十分。豊富な資料と写真により、半世紀にわたるジャニーズの歴史を余すところなく描ききり、圧巻の内容だった。

私も5月に刊行された拙著『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』(鹿砦社)で、ジャニーズ事務所について1章を設けている。ジャニーズの歴史についてはそれなりに調べたつもりだったが、それでも知らないエピソードが同書には多数収録され、ジャニーズ事務所の巨大さを改めて思い知られた。

2011年、ギネス・ワールド・レコーズは、ジャニーズ事務所総帥、ジャニー喜多川を「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として認定した。日本の男性アイドル市場に一大帝国を築いたジャニーズの功績は、あまりに大きい。

◆ジャニーズ=Johnny’s=ジャニーさんの所有物

だが、光があれば影がある。ジャニーズの栄光の陰で、ジャニーズ事務所所属タレントの多くは、ジャニーからホモセクハラ行為を強要され、金銭的にも搾取され、用済みとなれば容赦なく使い捨てにされた。同書は、そうしたジャニーズの闇についても、遠慮なく踏み込んでいる。

かつて芸能ジャーナリストとして活躍した竹中労は、1968年刊行の『タレント帝国』(現代書房)で、こう指摘している。

「ジャニーズ、英語で書けばJohnny’sである。Johnnyは人名で、’sは“所有”を意味する」

筆者はこれがジャニーズのすべてを物語っていると思う。ジャニーズ事務所所属タレントは、ジャニーの所有物なのだ。だからこそ、ホモセクハラや金銭的搾取が可能となる。

◆ジャニー喜多川を覚醒させた郷ひろみの独立劇

それが嫌ならば、逃げればいい。だが、ジャニーズ事務所所属タレントにはそれができない。なぜなら、ジャニーズ事務所は、日本の男性アイドル市場を完全に牛耳っているからだ。男性アイドルとして生きる道を選んだジャニーズ事務所所属タレントは、ジャニーから逃げることはできない。

ジャニーズ事務所が業界を独占する原動力となったのは、75年に起きた郷ひろみのバーニングプロダクションへの移籍事件だったと思う。

ジャニーにとって郷は理想とする少年アイドルであり、マネジメントにのめり込んでいた。だが、ジャニーが十二指腸潰瘍で赤坂の山王病院に入院している間に、郷の移籍は決まってしまった。移籍の原因は、金銭的不満とホモセクハラ行為にあったと言われる。

とはいえ、ジャニーは郷をスターにしようと全身全霊で取り組んでいたことは間違いない。それでも、郷は逃げてしまった。「主力商品」である郷を失ったジャニーズ事務所は倒産説も流れるほど経営が傾いた。

では、どうすればタレントに逃げられないようにできるか。その答えは、業界の完全支配しかない。郷の移籍事件以降、ジャニーズ事務所は矢継ぎ早に男性アイドルを世に送り出し、遂に業界を独占する力を持つに至った。

◆クライアントの商品にまで異を唱えた飯島三智×SMAPの全盛時代

ジャニーズ事務所の最盛期は、SMAPがもっとも人気を博し、今よりCDの市場規模が大きかった90年代末から2000年ごろだと思うが、当時のSMAPの力を象徴するエピソードを大手広告代理店関係者から聞いたことがある。

缶コーヒーの新CMの打ち合わせの席上、大手広告代理店の社員がSMAPのチーフマネージャーである飯島三智に今度、売り出すことになった缶コーヒーを試飲してもらったところ、飯島がこう言い放ったという。

「これはSMAPの味じゃない!」

大手広告代理店関係者は、こう言う。
「その後、缶コーヒーの味を変えたかどうかは分かりませんが、飯島さんの要求を受け入れて変えたとしてもおかしくないぐらい、当時のSMAPには勢いはありました」

有力タレントを擁する大手芸能事務所が番組のキャスティングや内容に口を出すという話はよく聞かれるが、CMで売り出す商品にまで口を出したのは、後にも先にも例がないのではないだろうか。

だが、そこまでSMAPが力を持っていたとしても、SMAPのメンバーが権力を持っていたわけではない。あくまで、SMAPを“所有”する飯島とジャニーズ事務所が力を持っていたということだ。

◆中居正広が木村拓哉よりも高所得である理由

そうした事務所による支配に嫌気が差したのか、SMAPでもっとも人気を獲得していた木村拓哉は90年代後半にジャニーズから別の大手事務所に移籍を画策し、騒動になったことがあった。そして、ジャニーズ事務所の意向を体現し、SMAPの分裂を抑えつけていたのが、SMAPのリーダー、中居正広だったと言われる。2005年に公表された芸能人長者番付によれば、前年の推定年間所得は、木村が2億7100万円、中居が5億1300万円だった。ジャニーズ事務所が査定で評価したのは、日本を代表する男性アイドルの木村ではなく、ジャニーズ事務所にとって都合のよい中居だった、ということではないだろうか。

タレントの盛衰は、単に実力で決まるのではなく、所属事務所の政治力や事務所間の談合がモノを言う。その象徴の1つがジャニーズ事務所による男性アイドル市場の独占だ。

だが、そうした不自然なシステムは、いつまでも続かないと筆者は考えている。日本の芸能界に変化が訪れるとしたら、ジャニーズも必ず激震が走るだろう。現在、83歳のジャニーが、いつまで事務所経営の陣頭指揮に当たれるか、という問題もある。今後もジャニーズの動きを注意深く観察してゆきたい。(評者=星野陽平)

 

『ジャニーズ50年史』(鹿砦社2014年12月1日発売)

『ジャニーズ50年史 モンスター芸能事務所の光と影』
2014年12月1日発売!!
ジャニーズ研究会=編 B6判 / 288ページ / カバー装 定価:本体1380円+税
【主な内容】
第1章 ジャニーズ・フォーリーブス時代 1958-1978
第2章 たのきん・少年隊・光GENJI時代 1979-1992
第3章 SMAP時代前期 1993-2003
第4章 SMAP時代後期 2004-2008
第5章 嵐・SMAPツートップ時代 2009-2014

▼[評者]星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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