意味不明な英単語「セレンディピティー」を無理強いする日本新聞協会の愚

はて、何の意味だろうと首をひねったのは昨年の早い時期だったろう。私の英語力が低いから、カタカナで「セレンディピティー」と書かれても何のイメージもわかない。このカタカナ言葉が使われていたのは「日本新聞協会」の広告で、「新聞はセレンディピティー」をキーワードに作文を募集する内容の広告だった。

不勉強を恥じ辞書を引いてみた。確かにある。”serendipity”は手元の辞書によれば、「ものをうまく発見する能力, 掘り出しじょうず;幸運な発見」という意味だそうだ。

しかし、この単語、カタカナ語にしても一体どの程度の割合の人々が理解できるだろう。一般企業の広告なら見過ごすけども、広告の出稿主は「日本新聞協会」だ。いわば日本語を適正に使うのが使命とされている新聞の共同体である。わざわざ「セレンディピティー」なる単語を用いないと表現できない概念を述べようとしたのだろうか。

◆わざわざ注釈をつけ始めた

悔しいから新聞協会に電話をした。

── 広告で使われている『セレンディピティー』という言葉について伺いたいのですが。
新聞協会 はい、どうぞ。
── 『セレンディピティー』とはどういう意味ですか?
新聞協会 「今まで知らなかったり気が付かなかったことに気が付く」という意味です。
── 恐縮ですが、これ読んでもほとんどの人は意味が分からないと思うんですが。
新聞協会 そうでしょうか。ご意見として伺っておきます。
── いや、新聞協会は日本の新聞のほとんどが加盟していますよね。そこが広告を出すに際しては言葉の選択を適切になさった方がよいのではないですか? 私の身近な少し英語が出来る人々にも聞いてみましたが、誰もこの意味理解しませんでしたよ。
新聞協会 はぁ。ご意見として伺っておきます。

という具合だった。

その後も何度もこの「セレンディピティー」は広告で登場して、昨年12月30日の新聞にもまた掲載されていた。ただ「セレンディピティー」に注釈がついていた。おそらく私のように「意味が解りません」という苦情が少なからずあったのだろう。

◆新奇なカタカナを強引に読者に提示する小賢しさ

新聞協会の広告と言っても作成は広告代理店との協議によるからコピーライター等の意向が強く作用したのかもしれない。にしても「言葉」の選び方としてはこれ、いかがなものだろうか。

同様の例は広告では過去に山ほどある。そのほとんどすべては英語か欧米語を引っ張ってきて奇をてらう手法だ。広告とは人目を惹かなければその役割を果たせない。だからそういった欧米語を強引に読者に提示するのは一つの手法として「仕事のやり口」なのだろう。

日本語では適切に意味が伝えられない、それゆえに定着したカタカナ言葉は少なからずある。それはそれで納得できる。けれども日本語でも充分語ることが可能であるのに、敢えてカタカナ言葉を持ってくる時には何かしら不純な意図を感じる。不思議なことにそういった不要なカタカナ言葉は往々にして中央省庁から発せられる。

耳慣れないカタカナ言葉を目や耳ににしたら、それを採用した集団とその意図を疑ってみよう。たぶん小賢しい企みが見えてくる。言葉は意味を伝える媒体であると同時に、それを発する人々の思惑を常に帯びている。

そうそう「アベノミクス」を調べてみた。解説では「弱者を思い切り痛めつけて、大企業の景気向上のみを目指す場当たり的な愚作」とあった。

新聞協会は「セレンディピティー」などという不要なカタカナ語を宣伝に使う前に、各紙の誌面で「アベノミスクスは愚策だ!」と連日解説するのが先決ではないか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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《紫煙革命16》電子タバコって体に悪いの?

電子タバコをご存知だろうか? 電気の熱で蒸発した液体の蒸気を吸う。ハイテクな水タバコだ。

◆電子タバコに関するWikipediaの記事はいい加減

Wikipediaには「たばこに似た形の吸引器を口にくわえ、専用カートリッジ内の液体を電熱線の発熱により霧状化し、その微粒子をたばこの煙のように吸引することでたばこの代替とする。葉を用いる従来のたばことは異なり、火気を用いない上に、燃焼に伴うタールや一酸化炭素なども発生しない。また、たばこの先端から副流煙が発生しないため、他人に迷惑をかけず自身の健康を害することもない。2008年頃から日本国内においてもメディアなどで取り上げられている」と説明されている。

従来の「火を燃やした煙」を吸うシガレットに対して、「電熱線の熱で気化させた液体の蒸気」を吸う電子タバコにはタールが含まれないので「健康を害することもない」と書かれている。なんだこのいい加減な記事を書いた奴は。

◆「○○は健康に良い」なんてウソだから、好きか嫌いかで選べ!

栄養学だとか健康食品だとか考える場合に一番最初に押さえておかなければならないことそれは「体に良い物質などこの世に存在しない」つまり「体に悪くないものなど宇宙には存在しない」ということだ。健康を考えるにあたって一番大事なのは「体が欲しているか否か」「必要か不必要か」ということではないだろうか。

やれ、納豆が体にいいだとか、バナナにダイエット効果があるだとか、シジミエキス二日酔いに効果的だとか、コラーゲン配合だから体にいいとか、ビタミンCが入ってるから風邪の予防になるなんてそんなことを平気で推奨する医者とかいるでしょう。あれは客観的な科学的な事実ではなくて、金をもらって宣伝している営業マンなんだぜ。

電子タバコ業界が「電子タバコは健康的でーす!」と金儲けのためにでたらめを並べるのは、そんなの販売戦略と経営努力だから企業の勝手でしょう。消費者が売り文句を鵜呑みにしちゃったら世も末だ。「騙されないように疑ってかかれ」と云っているのではない。「どうせだいたい嘘か冗談なんだから、好きか嫌いかで判断するほうが誠実だ」と云いたい。

ましてや「有名人も使ってるから」とか「偉い人が言ってたから」なんて理由でものを選ぶなんて言語道断だ。

◆煙草の煙の10倍以上の発がん性物質が検出された電子タバコ製品もある

2014年11月28日付けのasahi.comにこんな記事があった。

「味や香りのする溶液を蒸発させて吸う『電子たばこ』について、厚生労働省の専門委員会は27日、発がん性物質が含まれ、健康への悪影響が示唆されると評価した。今後、国内の使用実態や未成年への影響を調べ、報告書をまとめる。厚労省は、規制も含めた対応を他省庁と検討していく。

委員会では、国立保健医療科学院生活環境研究部長の欅田(くぬぎた)尚樹委員が、国内で入手したニコチンを含まない3製品の蒸気を調べた結果を報告。2製品から発がん性物質ホルムアルデヒドが多く検出され、うち1製品は紙巻きたばこの煙の10倍以上だったという。また、動物実験の結果から、電子たばこを毎日吸った場合、3種類の有害物質で健康に悪影響を及ぼす可能性が示されたとしている。」

アメリカの喫煙率は世界でも群を抜いて低い。公共の場や屋内での喫煙はほとんどできない。しかし、電子タバコの使用率は年々右肩上がりに上昇し続けている。嫌煙ムーブメントの結果、法律やマナーの隙間を縫って登場した電子タバコが注目を浴びている。火のないところに煙は立たない。ニーズのないところで企業は商売しない。電子タバコは立派なアイディア商品だ。

3年前から電子タバコを愛用しているミュージシャンのJさんに今回の厚労省の発表についてどう思うかインタビューしてみた。

──電子タバコの販売に政府が規制をかけようとしていますね

J 「もともとリキッド(電子タバコの液体)は海外から輸入して吸ってるんだけど、東南アジアのメーカーの方が種類が豊富だし、日本の電子タバコはニコチンが入ってないから興味ないんだよね。いちいち買うの面倒だからまとめ買いしてあって、大量にストックしてあるから別にいいよw」

──最近の研究で電子タバコに発ガン性物質が含まれいるとかいう話がありますが

J 「シガレット吸ってた時も、電子タバコにかえてからも、別に健康にいいか悪いかどうかよりも旨いかどうかしか考えないよ。あー旨いな、楽しいな、っていう方がよっぽど健康的だと思うんだよね」

半年前から電子タバコを愛用している経営コンサルタントのSさん(30歳)は
「へ?、発がん性あったんだ。知らなかった。ま、よくわかんないけど、電子タバコ、うまいよね?!」

▼原田卓馬(はらだ たくま)
1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。
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このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

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なぜテレビはどこまでも追いかけてくるのか?

私は取材など泊りがけで出かけると、安価なのでサウナをよく利用する。ビジネスホテルに比べればずいぶん安いし、長時間大きな風呂に入ることもできるから便利に使っている。

◆垂れ流されるテレビの音が不快過ぎる日本のサウナ

が、唯一閉口することがある。大概サウナはサウナ室にも休憩室にも食堂にもテレビを設置している。休憩室には前面に7つほど大きなテレビがあるのだが、さらに個々のリクライニングシートにも小型のテレビが設置されている。音声は椅子についている小さなスピーカーで自分が選択するのだが、この音声が方々から漏れて来て、やかましいことこの上ない。

どうしてこうもたくさんテレビを設置するのだろうか。休憩室にテレビがあるだけでもやかましいのに、サウナ室でも逃れることはできない。誰が選ぶのか知らないけども、くだらない番組が延々垂れ流される。汗が出る前にテレビの音声が苦痛になり、サウナ室を出る羽目になる。でも悔しいからまた入り、でも喧しいから直ぐに耐え切れず逃げ出して・・・を繰り返す。馬鹿みたいだ。

「目が悪くなるからテレビは2時間以上見てはいけません」と小学校で教わった記憶がある。パソコンと一日中睨めっこするのがホワイトカラー労働者には当たり前になったが、きっと近い将来視力に問題が出てくるだろう。かく言う私自身パソコンに長時間向き合っていると目の疲れだけでなく独特な疲労感を感じる。きっとパソコンは体に悪いだろう。テレビだって「2時間」以上見たら目に悪いと言われていたのに、多くの労働者(いや、遊びで利用する人も含めて)は平気で7、8時間パソコンの画面に向き合っている。そして帰宅した後は「テレビ」を見る──。よくやるなぁ、と思う。

◆「嫌煙権」が絶対正義ならば「テレビ拒否権」も立派な権利

知人に度を越えたテレビ好きがいる。彼は平日見たい番組を録画しておいて、週末にまとめて観るのが楽しみだそうだ。土日のどちらか1日は終日テレビ鑑賞で潰れる。昼食中も連続で録画した番組をぶっ通しで見るので1日10時間以上テレビの前にいることになるが、それだけではない。彼は防水テレビを持っている。お風呂に入るときもそれを持参し、湯船に浸かりながらもテレビ鑑賞は続く。ここまでくると、たいしたもんだと感心するばかりだ。

近隣アジア諸国に比べて日本人のテレビ鑑賞時間は長い。たぶん世界の多くの国と比較してもそうだろう。

大阪と京都を結ぶ京阪電車に「テレビカー」があった(今もあるのかどうかは知らない)。「電車の中でテレビが見られる!」はかつて斬新なサービスだったのだろう。あたかも飛行機機内で映画の映写が行われたように。

でも。スクリーンが下ろされて、そこに映写された飛行機内の映画も、今では個人個人が選択して見る事ができるような小型ディスプレイへと置き換えられた。どうか逃げ場のない場所でテレビを放映することを再考してはもらえまいか。

携帯電話やスマートフォンでもテレビが受信できる時代だ。お好きな方にとっては誠に便利なのだろうけども、携帯電話やインターネットを使っているだけでもNHKは受信料を払えと言ってくる。NHKには「馬鹿もたいがいにしろ!」と言いたい。

「嫌煙権」は絶対正義のように世の中からタバコを駆逐しつつあるけれども、「頭の健康」に有害な「テレビ」を御免こうむる権利も議論してはもらえまいか。

まあ、金があればホテルに宿泊し静かに寝れば良いだけのことなのだが、貧乏人にはこういう悲哀もある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

病院経営の闇──検査や注射の回数が多い開業医は「やぶ医者」と疑え!
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「守る」ことの限界──「守る」から「獲得する」への転換を!
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いつも何度でも福島を想う

 

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅲ]

事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を[][][]と3回に分けて公開する。今回はその3回目でこれで全文完結だ。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆取り調べは脅迫のようなことばかりだった

下関署まで車で連行され、取り調べ室に入ると、刑事が3~4人くらい入ってきました。そこで逮捕状を出され、刑事が何か読んだと思いますが、たしかな記憶はありません。やっていない事件でパクられるのは初めてだったんで、調書はどんなふうに書かれるのかわかりませんでしたが、刑事がまず、「私はRちゃん(筆者注:被害女児)を殺していませんし、捨ててもいません」と読み上げて、僕が「それでええよ」と言い、弁録ができました。

逮捕されてからの取り調べも任意同行された時と同じで、刑事は「こっちは科学的に証明できとるんやから認めろ」と、そればっかでした。「ヤクザの知り合いはおるんか?」と聞いてくるので、「おる」と言ったら、「そしたら、ヤクザの担当刑事から、ヤクザたちにお前の悪い噂を流して、下関に住めんようにしちゃろうか」と脅してきました。また、「今認めたら、生きとるうちに出られるけど、認めんかったら生きて出れんぞ」などとも言われました。否認していたほうが刑が長くなるという意味だったと思いますが、取り調べでは、そんな強迫のようなことばかりでした。

また、「弁護士を信用するな。本当にお前のことを思って言いよるのはワシらぞ。やけ、弁護士の言うことは聞くな」などと弁護士をバカにしたりと、とにかく精神的なゆさぶり、ダメージを与えようとしてきました。

捜査本部の置かれた下関署

逮捕前から悪かった体調は逮捕後もずっと悪い状態が続きました。取り調べは朝から晩までありますが、体調が悪くても早く切り上げてはもらえません。取り調べ中は当然、横になったりもできません。頭痛やめまい、疲労感がひどく大変でした。それは起訴までずっと続きました。

検事の取り調べは、最初は下関署でありました。しかし以降は山口地検の本庁で行われました。検事の取り調べがあるたび、拘禁されている下関署から山口地検の本庁まで車で連れて行かれるのですが、1時間半くらいかかり、車の移動だけでつらかったです。車の中では、両脇から警察官に挟まれいて、とても窮屈なんです。手錠に腰縄もされており、狭いから眠ることもできません。

また、一日に検事と警察の取り調べが両方あることもよくありました。朝から山口地検の本庁に車で1時間半くらいかけて連れて行かれ、検事の取り調べをうけ、夕方に下関署に帰ってからまた警察の取り調べを受けなければならかったこともありました。

刑事の威圧、脅迫をするような取り調べについては、弁護人が裁判所に違法な取り調べが行われている旨の文書を送ったりしていましたが、「ただの法令違反であって」みたいな文面が送られてくるだけで、裁判所は取り合ってくれませんでした。「法令違反なら、違反しとるんやから、やめさせろや!」と思いました。

さらに弁護人は山口県警の本部長に抗議する文書を送ってくれましたが、刑事の取り調べはまったく改められず、むしろ威圧、脅迫がひどくなりました。取調べ室に入るなり、刑事が赤い顔をしてケンカ腰で、「お前の思い通りになると思うなよ」と言ってきたこともありました。検事の取り調べで保木本(正樹。当時の山口地検三席検事)に民族差別発言を浴びせられ、僕が絶対に許すことができない思いでいるのは以前もお話した通りです。

◆1日も早く家族の元に戻って働き、子供の面倒をみたい

今改めて振り返ると、捜査も裁判も真実から目を背けた感じで、そのまま出来レースで有罪判決が出てしまったように思います。僕は裁判員裁判というのは、公平な裁判をするためにするものだと思っていました。しかし、ふたをあけてみると、裁判員は裁判員裁判の進行のために形式的にいるだけでした。裁判は僕を犯人と決めつけた上で進んでいったように思います。本当に最低の裁判員裁判でした。見せられるものなら、日本の国民の皆様に、どれだけ最低な裁判員裁判だったのかを見てもらいたいぐらいです。

あの日、あの場所に行かなければよかったとか、行くとしても別の日にしておけばよかったと思うこともあります。そうすれば、こんなことに巻き込まれずに済んだわけですからら。もしくはMを殴った容疑で逮捕された際、罰金30万円を払うのではなく、拘置所で労役として30万円分作業をしていれば良かったかなとも思います。そうしておけば、完全なアリバイが証明できたからです。

そういえば、拘置所で運動を一緒にやっている時に「青信号を渡っていたら、いきなり車が突っ込んできたようなものやな」と言ってくれた人がいます。こういう所に入る人というのは、目や態度をみれば、無実だと言っている人間が本当に無実なのかどうかわかるそうですね。ヤクザの人からも「お前の目は澄んどる。話す時も目をそらさん。じゃけぇ、やってないってわかるんや」と言われました。カタギの人、任侠道で生きる方々、みんなが励まし、支援してくれました。この思いや縁は一生大切な宝物です。

ただ、今は過去を振り返るより、再審で無罪を勝ち取って1日も早く家族のもとに戻り、働きたくて仕方ないです。そして早く娘、姪っ子、甥っ子に色んなものを買ってやり、色んなところに連れて行ってやりたいです。僕は子供の面倒をみるのが大好きなんです。保父さんになりたいと思ったこともあったぐらいです。実際今でもなりたいぐらいです。ただ、高校生の時に同じ年のヤツや後輩などにそれを言うと、「えっ!?」って顔をされて、「全然似合いませんし、子供が泣きますよ(笑)」と言われました。「一体周りのヤツらはオレをなんやと思っとるんや」と思いました。子供に泣かれたことなんか一度もないですし、むしろめちゃくちゃ懐いてくるんですけどね。

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

親の助けにもなりたいです。とにかく僕は何もやっていませんから、今まで生きてきたのと同じ年数(筆者注:湖山氏は現在30歳、判決は懲役30年)を持って行かれるのは許せません。警察、検察は正義ではなく悪です。そして裁判官は地裁、高裁、最高裁問わず、稚拙で見識の狭い、ただの傀儡でしかない。保育園からやり直してこい!! [了]

【下関6歳女児殺害事件】

2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

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下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

▼片岡健(かたおか けん)

1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅱ]

2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を3回に分けて公開する。今回はその2回目。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆逮捕されても何も恥じることはなかった

捜査本部の置かれた下関署

5月24日に任意同行された時は、前触れはなく、警察は朝の9時前、いきなり家に「聴きたいことがあるんじゃ」とやってきました。玄関のドアを開けると、記者たちがブワ~と大勢いて、バシャバシャとフラッシュを焚かれて写真を撮られました。そして下関署に任意同行されると同時にガサ入れもされました。

取り調べでは、刑事は最初から僕のことを犯人扱いで、「こっちは科学的に証明できとるんじゃ」とそればかりを繰り返し言ってきました。しかし、「じゃあ、それを見せろ」と僕が言っても、見せてくれません。「任意じゃろうが」と言って帰ろうとしたんですが、「こっちはお前を止めようと思ったら、止められるんじゃ」と帰そうとしない。仕事を休みにさせられましたし、家に残してきた娘のことも心配だったし、精神的にきつかったですね。

押し問答が続き、刑事が怒り気味に「なら、ポリグラフ検査受けろ! サインしてくれるか」と紙を僕に渡してきました。僕はポリグラフ検査のことを知っていたので、「ポリ検か。昔で言うウソ発見器やのぉ。ええど、しても」と言ってサインをし、ポリ検を受けましたが、疲れてほとんど寝てましたし、適当に返事だけして内容とか全く覚えていません。

また、この日は尿も採取されました。尿を採取される時、「オレは今までシンナーもシャブも他の薬物にも手を出したことがないけ、尿検査してもなんも出てこんど」と笑いながら言ってやりました。

家に帰ったあと、おじさんたちは僕が逮捕されるか否かについて、「こっから2週間以内が勝負やないんか」と言っていました。ただ、警察はマスコミも集めて大々的に僕を任意同行していたので、僕個人は「近々必ず来る(=逮捕される)」と思っていました。警察はもう引き返せないだろうと思っていたんです。

5月24日に任意同行されて以降はどこかに外出する際にその都度、警察に連絡していました。逃げも隠れもするつもりがなかったからです。ただ、僕はこの頃、体調が悪く、娘の体調も良くなかったんで、自ら警察に電話して、「体調悪いけ、無理ですわ」と取り調べを断っていました。そのことがテレビで「今日の取り調べは中止となりました」などと報じられていました。

5月27日の朝も担当刑事に電話をし、「今日も体調悪いけ、無理」と任意同行の求めを断ろうとしたんです。しかし刑事は「今、そっちに向かいよる」と言ってきました。これでこの日、自分は逮捕されるのだとわかりました。

警察が家にやってきた時、「フダ(逮捕状)持っとるんか?」と聞いたら、「ある。今出してええんか?」と言ってきました。刑事が逮捕状を出したら、僕はその場で手錠をかけられてしまうんで、「待て。出すな」と言いました。家には、母親も娘もいたからです。

家から警察に連れて行かれる時、娘はまだ2歳だったんで、状況を理解できていたのかはわかりませんが、ワンワン泣きよったんで、抱っこしてあげて、いつも仕事に行く時に言っていたように『パパ、お仕事行ってくるけんね。おりこうさんに待っとけるね?』と言って、いっぱい抱いてやりました。そして母親に、『×××(筆者注:娘の名前)のこと頼むよ!』と言って娘を渡して、刑事に『行こか』と言って玄関に向かいました。

後ろ髪をひかれる思いでした。しかし、僕は娘のほうを振り向いたら決心が鈍ると思い、振り向かずに出て行きました。家を出ると、任意同行された時と同じようにマスコミが集まっていて、フラッシュの嵐でした。でも、僕は顔も隠さず、堂々と出て行きました。「オレの顔を今のうちに撮っとけ」と思いながら、一瞬立ち止まり、ゆっくりと警察車両に乗り込みました。何も恥じるようなことはしていないからです。

逮捕されるというのはたしかにショックですが、本当にやったことで逮捕されるわけではありません。警察は、僕がやっていない事件のことで僕を引っ張りにきたわけですから、僕としてはショックより「これから闘う」という感じでした。刑罰を受けることに現実味は感じませんでした。

ただ、この日、娘をいっぱい抱っこしてあげたのが最後になろうとは思っていませんでした。今でもあの日、娘を抱っこした時の感触は残っています・・・。[Ⅲにつづく]

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅰ]
下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

《独占公開》冤罪確定疑惑の下関女児殺害事件──湖山忠志氏の手記[Ⅰ]

当欄で繰り返し冤罪疑惑をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件では、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。実を言うと、筆者は上告棄却の判決が出る少し前から広島拘置所で、湖山氏に事件当日からの経緯を振り返ってもらう取材を続けており、事件発生から丸4年になる昨年11月28日前後のタイミングでインタビュー記事を発表したいと考えていた。湖山氏が最高裁に上告を棄却されたという知らせは、くしくもその取材が佳境に入った時期にもたらされたものだった。

だが、湖山氏は雪冤をあきらめたわけではなく、再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。また、6歳の女の子を惨殺した真犯人がまだ野放しになっている可能性が高いことを考えれば、この事件は決して終わっていない。そこで湖山氏にこのほど、改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

湖山氏は事件発生当時、別れた元妻と金銭問題の交渉をするために連日、所在不明の元妻を探していたのだが、事件当日の夜も元妻のいとこが住んでいるマンションに元妻が身を寄せていないか確認に赴いていた。このマンションと同じ敷地にあるマンションが事件現場となったマンションで、そこに湖山氏の元交際相手のMさんが娘である被害女児と一緒に暮らしていた。事件当日にこのマンションの敷地に赴き、タバコの吸い殻を捨てていたことが、裁判では湖山氏に大変不利にはたらいた。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記全文を今回から3回に分けて公開する。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆「みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われた

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

事件があった日、元嫁を探しに出ていた僕が家に帰ったのは2時前後でした。2時半かその前に、自販機にジュースを買いに出て、その時に妹とすれ違いました。そして帰ってくると、父親がちょうどトイレに起きてきて、どういうことを言われたかは覚えていないですが、「どこ行っとったんか」みたいなことを言われました。それから2階の部屋に戻り、1時間ほどゲームをして、寝たのは3時半前後だったと思います。

そして朝、母親が部屋に上がってきて、「警察が来とるよ」と起こされました。それで僕は玄関のほうに行ったのですが、2、3人の刑事が来ていたので、「何ですか?」と聞きました。すると刑事は、「ちょっとMのところで火事があってのう。ちょっと聞きたいことがあるんじゃ」みたいなことを言いました。

火事?と驚きましたが、火事のことで、なんで自分に話があるのか? とも思いました。しかし、とりあえず話を聞いてみようと思いました。それで、かるく着替えて、家の近くの交番まで刑事と普通に会話をしながら歩いて行って、その交番に刑事が停めていた車で下関署まで行きました。

下関署では、取り調べ室に入る前、僕と同い年の知っている刑事が寄ってきて、「おい、湖山。大丈夫か」「何があったんか」などと言われました。その刑事は、僕が以前、Mを殴った容疑で逮捕勾留された際の担当だった刑事です。取り調べ室に入って、「あの後、どーなったんか」と話しかけてくるので、「子供(筆者注:別れた妻との間にもうけていた娘)は俺が引き取ったや」「やったやないか」などと普通に話をしました。

取り調べには、知能犯係の刑事もいました。その刑事は紙を持っていて、それをチラリと見たら、「殺」という字が見えました。そして、莉音ちゃんが死んだって聞かされたんですが、刑事は「どうも殺されたみたいなんじゃ」と言うんで、僕は「ホントですか?」みたいな感じになった。同い年の刑事の顔を見たら、同い年の刑事は言葉も出さず、僕は「マジか…」みたいになりました。

それから「事件があった時のことも聞かせて欲しい」みたいになって、同い年の刑事が調書を作ってくれました。僕はもうMと関わり合いたくなかったので、「一切そこ(筆者注:事件現場)へは行っていない」と言ったら、それで調書をつくってくれました(筆者注:このように湖山氏は事件当日、事件現場のマンションと同じ敷地に行っていたことは当初隠したが、のちに自ら警察に打ち明けている)。そうこうしていたら、父親が下関署に電話してきたらしく、「息子は今マジメにやっとるのに、どういうつもりか!」などと怒鳴り上げ、帰らすように言ったそうです。

僕も娘のことが心配だったんで、刑事たちと何時までかかるのかという話をしていたのですが、オヤジのおかげで、「帰らすけえ」となりました。そして帰りぎわ、取り調べ室で同い年の刑事と2人きりになったんですが、「オレは思ってないけど、みんなお前が犯人と思っとるぞ」と言われました。

警察の車で連れられて家に帰ると、親父に「何があったんか」と聞かれました。刑事からは「家族にはまだ言うな」と言われていたのですが、事件のことはニュースでバンバンやっていたので、親父は「このことやないんか」と言ってきました。そうだと認めると、「お前(が犯人と)違うんか」と言ってきて、「違う」と答えたんですが、家でも尋問されているようでした。

◆警察の内偵捜査はずっと続いた

その日以降も親父からは事件との関連について、「やってないんか」と聞かれ続けました。下関では、事件に関する噂が飛び交っていたのですが、親父の部屋に呼ばれ、「ベランダからお前の指紋が出たらしいぞ」と言われたこともありました。僕に関する噂が広がったのは、僕が下関ではそれなりの知名度があったからだと思います。

警察の呼び出しも事件当日のほか、2回くらいありました。たしか12月2、3日くらいのことだったと思います。下関タワーの近くに電器屋さんがあるんですが、その駐車場で落ち合おうという話になり、その駐車場に停められた警察車両に乗り、刑事から色々話を聞かれました。1回目は話だけで終わりましたが、2回目の時は口腔内細胞を採られています。

刑事の一人はこの2回会って話をする際、「タバコを吸ってもええぞ」としつこく何度も言ってきましたが、僕は断っていました。そして最終的に業を煮やしたのか、「口の中の唾液を採らせてくれ」と言われました。ある程度ほっぺの内側を綿棒でこすって渡そうとすると、「まだしっかりとこすりつけろ!」と語気強く言われ、これでもかというぐらいこすって渡しました。

それからは警察の内偵捜査が続きました。僕の住んでいる地域では、地域に馴染んでいる人と馴染んでいない人がすぐわかるんです。道に車が停められていても、「見ない車だな」とすぐわかります。それに、うちの前の通りは普通、地域に住んでいる人以外は通らないんです。ですから、家の近くなどに刑事や警察、マスコミの車がいると、すぐにわかりました。

たとえば娘、甥っ子、姪っ子を連れて公園に行った時など、僕が車で外出すると、外に警察のミニバンやスカイラインその他の警察車両がいて、僕の車をつけてきていました。ある日、仕事に行く時、僕の車のあとをスカイラインがずっとついてくるので、運転している人間の顔を見てやろうと徐行運転して横に並んだら、向こうはもっとスピードを落とし、逃げていったということもありました。逮捕されるまで、そういう内偵はずっと続いていました。

また、マスコミの記者もよく家の周りをうろついていました。記者は大体、小さいカメラを持って外にいるんです。僕が家から出た時に偶然ばったり会った記者が大慌てし、とにかくどこかへ隠れようと行き止まりの方向に歩いて行ったということもありました。

警察や記者に張りつかれても、僕の生活には、とくに害はなかったです。ただ、マスコミは最初のうち、とにかく僕に接触しようとしていて、母親が手伝いをしている、おば夫婦が経営する焼肉屋に行ったり、親父の会社に電話し、親父を怒らせたりしていました。親父は警察に電話して、「お前らのせいで、こうなっとるんやろうが! どねぇかせんか!」となどと怒鳴り上げていました。

当時、マスコミの取材は受けていませんでしたが、一度だけ、オグラっていう人が出ている番組の取材を受けたことがありました。この時は車の中で取材を受けたのですが、「Mはどういう性格?」「Mは家ではどういう感じだった?」と僕のことをほとんど聞かず、Mのことばかり聞いてきました。僕はこの時、「報道するな」と釘を刺していたんですが、番組ではこの時の僕の映像なのか、音声なのかはわかりませんが、とにかく話の内容が流れたらしいです。これにおじさんが怒って、テレビ局の記者に電話して、「どういう放送だったのか見せろ」と言っていましたが、はぐらかすようにされ、「もうおたくの取材は何も受けん」みたいになりました。

一方、警察は事件のすぐ後に電器屋の駐車場で話を聞かれて以降は、事件の半年後の翌年5月24日に任意同行されるまで直接接触してくることは一切なかったです。ただ、下関署には、運転免許証の更新のために電話でどうしたらいいのか問い合わせたり、免許証の写真を撮ったり講習を受けたりと2回足を運びました。写真撮影の時は娘と、講習の日は1人で行きました。[Ⅱにつづく]

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

[関連記事]
下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う

 

 

《脱法芸能35》森進一──「音事協の天敵」と呼ばれた男

芸能界史上最大のタレント独立事件と言えば、森進一の渡辺プロダクションからの独立劇だろう。当時の渡辺プロダクションは芸能界最大勢力であり、森も演歌界を代表する歌手だったから、マスコミはこぞって、この「戦争」を採り上げた。

森は1972年以降、契約更新の時期になると毎年のように渡辺プロに内容証明を送付し、待遇改善を迫っていた。それによって、給料は上がったが、渡辺プロのお仕着せの曲でヒットしないことに不満を募らせ、次第に自分の歌は自分で選びたいと考え、79年、13年所属した渡辺プロから独立を果たした。

当時の渡辺プロの実力は、全盛期に比べると衰えていたが、音事協を中心とする芸能プロダクション勢力の結束は強く、森はテレビから締め出された。

『おふくろさん』(1971年5月ビクターレコード、作詞=川内康範、作曲・編曲=猪俣公章)

◆「つくづく変わった男だった」

音事協が特に神経をとがらせたのは、森が他のタレントに「独立するとオイシイよ。十年選手だったらやったらどう?」などとそそのかしたという。これが音事協で問題となり、共演拒否の動きが広がった。森は「音事協の天敵」と呼ばれ、芸能界で孤立した。

元渡辺プロ取締役、松下治夫の著書『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡―』(青志社)でも、森は批判的に書かれている。

森はラテン・ビッグバンドの東京パンチョスのリーダーだったチャーリー石黒がその素質を見込んで渡辺プロに連れてきてきたという。同書によれば、森の独特のハスキーボイスはチャーリーが開発したものだったとする。

当時の渡辺プロは、演歌歌手は森だけで、ポップス歌手が本流だったから、誰も森に期待はしなかったが、あれよあれよという間にスタートなってしまった。

松下は「森進一はつくづく変わった男だった」と述懐している。

森は渡辺プロからもらった給料を明細ごと封も切らないで、押入れに入れていたという。それが貯まって億というお金となり、さすがに心配した松下が社長の晋に相談したほどだった。そのうち森は「お金を増やす方法はないか?」とマネージャーに相談し、不動産に投資することとなり、自宅と事務所ビルを建てた。

さらに森はデビューして1年後の67年末、待遇の不満から木倉事務所に移籍しようとしたことがあった。この時は、音事協会長で政治家の中曽根康弘までが乗り出して調停する事態となり、結局、移籍の話はなくなった。

◆「極貧」からの脱出

なぜ、森はお金に執着したのか。

デビュー当時の森について回ったのが「極貧」という言葉だった。

森は本名を森内一寛という。47年生まれで、出身地は山梨県甲府市。父親は古着の行商をしていたが、それが行き詰まり、静岡県に流れ着いた。そして、小学校5年生のころ、父親と母親が別れてしまった。父親が間借りしていた家主の奥さんと不倫関係になったのを母親が苦にしたためだった。

母親は森と乳飲み子の弟、4歳の妹を連れ、親戚を頼り、下関に移ったが、やがてバセドー氏病にかかり、働けなくなってしまった。森の一家は、森が中学3年生のときに、母親のいとこを頼って鹿児島に移った。

貧しい森一家は、生活保護を受けなければならなかった。おかずはなかったから、ご飯に醤油をかけて食べた。森は朝4時に起きて、牛乳配達をし、それから朝刊を配り、学校へ行き、帰ると魚屋の手伝いをし、夕刊を配って働いた。中学3年のときの成績は音楽を含めてすべて「3」。備考には「気が弱い。特記事項なし」とあった。

高校進学をあきらめた森は中学校を卒業して、集団就職で大阪に行き、十三駅前通りの寿司屋「一花」で働いた。住み込みで給料は1万2000円。だが、4ヶ月もすると、「ぼく、この仕事に向かんと思います」と言って、辞めてしまった。それ以降、十円でも給料の高いところを目指し、職を転々とした。15歳から17歳まで21回も転職した。

森は17歳のとき、フジテレビののど自慢番組『リズム歌合戦』に出場し、優勝した。番組のバックバンドをしていたチャーリー石黒に拾われ、レッスンに励み、66年、18歳のとき、『女のためいき』でデビューした。

たちまち森はスターとなったが、渡辺プロが森に払った給料は、年間4億円の稼ぎがあると言われながら、68年1月まで8万円だった。森はそのうちから3万円を母親に仕送りした。また、森は早くから家を買いたいと考え、給料の半分は貯金に回した。

木倉事務所から1000万円の契約金で移籍のオファーが舞い込んできたのは、そんなときだった。結局、移籍の話は潰れたが、森の月給は50万円となり、仕送りの額も10万円になった。

◆母の訃報が届いたその日、長崎で熱唱した『おふくろさん』

遊ぶ暇などなかった貧しい少年時代の反動なのか、スターとなった森は女性スキャンダルが相次いだ。73年2月24日未明、森の母親がガス中毒で自殺するという事件が起きたが、その理由にはバセドー氏病の病苦の他に、息子のスキャンダルによる心労があったとも伝えられている。

母親が死んだ日、森は長崎県諫早市の体育館でステージに立っていた。

ステージで司会者がこう言った。

「森さんのおかあさんがけさ亡くなりました。家には妹さんと弟さんしかおらず、すぐにも東京に帰りたいが、みなさんのためにうたってくれます」
森は涙を流しながら『おふくろさん』を熱唱し、会場を嗚咽の声でいっぱいにした。実際、森は一刻も早く母親のもとに向かいたかっただろうが、これが「ナベプロ商法」だった。

ショーを終えた森は空港に向かい、全日空機に飛び乗ったが、自宅に到着したのは、母親の自殺が確認されてから17時間以上経過した午後10時過ぎのことだった。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

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2015年日本の現実──日本に戦争がやってくる

1月7日発売の『紙の爆弾』で詳しく紹介されるが、本山美彦京都大学名誉教授に「アベノミクス」を中心にお話を伺った。大学で長く教壇に立った方には独特な語り口がある。とりわけ自由な学風の大学で文科系の学生を育ててこられた先生方には共通する「語り口の優雅さ」を感じる。本山先生も語り口はそのように穏やかではあったけれども、語られた内容は極めてショッキングな内容だった。私のような知識の浅い者にもわかり易くなおかつ「許しがたい」、「憤慨ものだ」、「金につられる経済学者が多すぎる」と熱く語っていただいた。是非『紙の爆弾』2月号を拝読されたい。

◆どうして原発が爆発しても日本はまだ原発を続けるのか?

本山先生をはじめ、この2年ほどその世界で最先端の方々のお話を伺う中で、共通していることがある。外国の方々は「どうして原発が爆発しても日本はまだ原発を続けるのか。そしてどうしてアメリカの尻馬にのって戦争をしたがるのか」と異口同音に仰る。日本の方々は「もうすぐ『憲法改正』となるだろう。そして遠くない将来、日本は戦争に巻き込まれるだろう」と暗い顔でつぶやいていた。

“Twitter”というSNSがある。私は当初よりその語感が気持ち悪かった。なぜに「つぶや」かなければならないのか。だれに「つぶやき」を聞いてほしいというのか。140字余りでまとまった考えなど述べられるはずはないではないかと訝っていた。「つぶやく」とは大声で主張をすることではない。だから”Twitter”の機能を日本語で正確に訳せば「つぶやく」は不適当だ。

◆米国の戦争に巻き込まれる日本

話がそれたが、「戦争に巻きこまれるだろう」と語っていただいた方々はいずれも65歳以上の方々で、大声を張り上げたり、「俺の言うことを聞け!」という姿勢の方は一人もいなかった。むしろ残念至極、己の恥でも語るように苦渋の表情で私に目を合わせず語られる方が多かった。

「何を大げさな」と訝る方々も少なくなかろうが、私も「戦争」は遠くないと思う。

だから、順番が逆のようではあるが遠くない将来、戦争に巻き込まれる若い世代に、あらかじめお詫びしておこうと思う。

「本当に申し分けない。私たちの世代の怠慢のために、君たちに迷惑をかけてしまった。許してくれなどと言うつもりはない」

こんなしみったれた話、20年前には多くの人が、確定しない「未来の可能性」としてのみ語っていた。残念ながら今日、それを語るのは各学問分野の良心的最先頭に立つ方々であり、情報に敏感な市民たちだ。皆さん「戦争が来るぞ!」と大声で語るわけではない。それこそ、こんな話などしたくはなかったとつぶやくように。

断言する。戦争がやってくる。

正確に言えばもう戦争は始まっている。ウジウジ細かい議論を避けるなら、自衛隊をイラク派兵した時から(戦死した自衛官は出なかったけれども、帰国後自殺した自衛官の数は相当数に上るという)戦争への参加は明確に始まっている。21世紀、日本の戦争、始まってもすぐに日本国土が爆撃を受けたり、原爆が落とされたりという姿では進まないだろう。たぶん自衛隊が日本から距離のある地域(中東やアフリカ)に派兵され、そこで戦死者が出ることから国民総動員が完成されるだろう。

イラク派兵時に日本の自衛隊を守るオランダ軍に攻撃があった際は「駆けつけ警備という形で戦闘を行いたかった」と自衛隊の隊長であった髭を生やした現自民党国会議員は堂々と述べていたではないか。イラクに自衛隊を派兵した政府の狙いは「駆けつけ」ではなく「巻き込まれ」によって「戦死者」の実績を作りたかったのではないか。そしてその戦死者を靖国神社に祀りたかったのだ。

◆日本は米国の戦争に一度も反対をしたことはない

カンボジアにPKOを派遣して以来、自衛隊は気が付けば地球の裏まで毎年出かけていっている。軍事行動をするのではない(できない)のだから民生部門の支援(道路建設やインフラ整備)が主たる任務だ。ならば軍隊まがいの自衛隊ではなく民間企業に委託してODAとして行えばいいものを、政府は一貫して自衛隊、海外派兵にこだわってきた。そして「集団的自衛権」である。

「集団的自衛権」は日本が攻撃されなくても、「アメリカが戦争をすればついていかなければならない軍事同盟」と理解すればよい。政府はあれこれ事例を挙げて「この条件が満たされた時だけ」とか「ますます平和になる」など赤ん坊でも呆れるような嘘を平気でつきまくっているが、要はそういうことである。アメリカ合州国という国は建国以来200回以上にわたる海外派兵を行い、(9・11を除き)一度も本土が戦場になったことのない国だ。また、戦争を反省(ブッシュがイラク戦争における「大量破壊兵器はなかったので攻撃は間違っていた」)まがいのことをしたことはあっても、金輪際謝罪や補償をしたことのない国である。その国の戦争(外国攻撃)に日本は一度も反対をしたことはない。

◆WWⅡ時に匹敵する総量の爆弾を小国アフガニスタンに投下する米国

アメリカは毎年のように戦争をする。戦争と呼ぶのが相応しいかどうか微妙だが、現在もシリアに爆撃を行っている。常にイスラム革命後のイランを睨み、フセインを傭兵として育成したけども言うことを聞かなくなったので、殺してしまった。今でもイランを睨み、パレスチナを潰そうとしている。

アフガニスタンの政府の国家予算は年間205億円だ。1ドル110円で換算すると2兆2550万円。日本の国家予算の約50分の1。そんな国に第二次世界大戦中に投じた爆弾の総量に近い爆弾を投下して「戦争に勝った!」と喜んでいるのがアメリカ合州国である。最近はあまり見かけなくなったが、街で言いがかりをつけてくる「ゴロツキ」のような振る舞いををして戦争を行うのが彼の国だ。

繰り返すが、不可逆的に日本は必ず戦争に巻きこまれる。お子さんが、お孫さんが、お知り合いが心配な方は対策を準備したほうがいい。

とても残念ではあるが私たちの生きている2015年とはそういう時代だのだ。そう、つい最近日本を襲った台風並みの寒波のように。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

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国松警察庁長官狙撃事件発生20年、今年こそ「真犯人」の悲願は叶うか

新年を迎えると、誰もが心を新たに今年の目標や誓いを立てる。志望校への合格、就活の成功、結婚、妊娠、商売繁盛、禁煙、ダイエット……。定める目標、誓いは人それぞれだろうが、おそらくは人生で残された時間が短いという意識が強い人ほど、定めた目標や誓いを実現したい思いは強いのではないだろうか。

事件現場の国松長官が住んでいたマンション。長官は出勤のために出てきたところを狙撃された。

そんな話を持ち出したのは、ある高齢の男性受刑者の悲願が今年こそ叶って欲しいと他人事ながら思っているためだ。中村泰(ひろし)という。現在84歳。あの歴史的未解決事件、国松孝次警察庁長官狙撃事件の「真犯人」とめされる男である。

1995年3月、地下鉄サリン事件の10日後に発生したこの事件では、捜査を主導した警視庁の公安部がオウム真理教の犯行を執拗に疑い続けた一方で、刑事部は中村を本命視していたと伝えられている。中村は別件の現金輸送車襲撃事件の容疑で身柄拘束中、国松長官狙撃事件の犯行を詳細に自白。さらに獄中にいながらマスコミの取材を受け入れ、自分が国松長官を撃った真犯人だと認めたに等しい証言を重ねていた。だが結局、警視庁は中村の逮捕に踏み切らず、2010年3月に時効が成立した。

筆者は一昨年の秋頃、岐阜刑務所で無期懲役刑に服している中村に取材を申し込み、手紙のやりとりをさせてもらうようになった。この間、中村の証言に基づいて関係現場の状況も検証し、やはり中村は国松長官を狙撃した真犯人なのだろうという思いを強めている。

◆医療施設で闘病中

中村によると、国松長官の狙撃を企てたきっかけは、地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教の捜査に及び腰だった警察に業を煮やしたことだった。オウム信者の犯行を装って警察組織のトップを狙撃すれば、警察はオウム制圧に動くと考えたという。中村は元々武力革命を志向する人物で、実際に長年そういう活動もしていた。

ただ、国松長官を狙撃後、警察が自分の予想以上に奮起してオウムを制圧したのをうけ、中村は身を挺して実行し、大成功した作戦が人知れず消えていくのを残念に思う気持ちになったという。それが、犯行を告白するに至った理由なのだそうだ。

そんな中村の悲願とは、言うまでもなく自分のことを国松長官狙撃事件の犯人だと世間に広く知らしめることだ。そのために中村はマスコミとの接触を続けた。昨年8月、取材協力したテレビ朝日の「世紀の瞬間&日本の未解決事件スペシャル」という特番で真犯人同然の扱いを受けた際にはとても嬉しそうだった。だが、実を言うと、現在は心配な状況にある。中村は病に冒され、移送された医療施設で闘病中なのである。

その連絡は昨年12月中旬、代理人の弁護士を通じてもたらされたのだが、中村は闘病中であることと共に「このような事情で取り込み中ですので、年賀のご挨拶は失礼いたします」ということまで律儀にことづけてくれた。事件は3月30日で発生20年を迎えるが、中村がそんな人間味のある人物だからこそ、筆者は願わずにいられないのだ。中村が命あるうちに少しでも多くの人に国松長官を撃った「真犯人」だと認知されて欲しい、と。

▼片岡健(かたおか けん)1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

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《大学異論24》日本テレビが喧伝する「箱根駅伝」の不平等

箱根駅伝は正月恒例のイベントとして、日本テレビ系列が全国に放送する。関東地方の読売新聞勧誘業者は、12月に契約を結ぶ新規購読者にかなり高価と思われる「箱根駅伝」の文字が大きくプリントされたウィンドブレーカーがプレゼントされる。読売新聞では戦況予想や選手のプロフェールが連日誌面を埋める。

だが、「箱根駅伝」は関東大学の間でだけ競われる「地方大会」だ。あたかも日本で一番駅伝の強い大学を決める競技会のように放送され、見る側もその気になっているかもしれないが、あんなものがあるがために大学陸上部の勢力図が歪められてしまっているのだ。

高校時代に優れた成績を残した選手には、関東の大学からの勧誘が相次ぐ。「練習環境がいい」、「全国から強豪が集まる」そしてきめのセリフが「箱根を走れるよ」だ。

でも大学のリクルート(高校生募集)担当者は1年の半分以上を東海より西の地域で過ごすことになる。陸上競技に興味をお持ちの方であればご存知だろうが、高校の長距離、特に駅伝は近年圧倒的に西日本が強い。特に関西や中国、九州から地力のある選手が例年出ている。今年の全国高校駅伝の優勝は広島の世羅高校だった。

だから、箱根駅伝で各大学から出場している選手の出身校を見ると圧倒的に東海より西の選手が多い。開催地である東京や神奈川出身の選手など数えるほどしかいない。走り始める前の選手たちの間では関西弁が飛び交ていることだろう。

もう何十年もテレビで放送され、あたかも実力日本一を決める大会のように、読売新聞、日本テレビをはじめとするメディアが大きく扱うから、それが悪影響を及ぼし、実力のある選手が東京一極集中という現象が定着してしまった。これは大変不公平な現象である。

全国の大学に出場資格があり(勿論地区大会を勝ち残った上でだが)公平に日本中の大学の実力が競われるのは「全日本大学駅伝大会」だ。選手層が厚い関東勢が近年は必ず優勝するし、上位を占める。それでもこちらは日本中どの大学にでも予選会への出場資格があるという点で、公平な大会といえる。逆に箱根駅伝は関東圏の大学にしか予選会への出場資格がない。

何のことはない。関東周辺の「地方大会」を大騒ぎしているだけのことだ。

その証拠に、こういったスポンサーや大会運営会社の意向がまだあまり及ばない、大学女子駅伝では全く異なった勢力図が展開されている。女子駅伝は高校レベルでは男子ほど「東西格差」が定着していないものの、やはり「西高東低」の傾向は同じだ。そして大学レベルではその勢力図がそのまま反映されている。つまり東海以西、西日本の大学に強豪が多いのだ。

女子駅伝は歴史が浅いこともあり「箱根駅伝」に相当するような特定スポンサーが我儘を通す土壌はない。これは幸いなことだろう。

更に箱根駅伝にケチをつければ、この大会ではあまたの「ヒーロー」が生まれたが、その選手が後に大成したためしがない。近いところでは4年連続往路の山登りで驚異的な走りを見せ、新記録をたたき出し続けた東洋大学の柏原竜二選手が有名だが、彼は普通のトラックやマラソンを走らせても凡庸な記録しか出せない。古いところでは瀬古利彦も箱根を走った。瀬古は最長区間である「4区」を毎年快走したけれども、彼の活躍は箱根駅伝以上に「福岡国際マラソン」で学生として優勝を果たしたことから始まっていたのだ。

このように正月のおとそ気分に付け込んで、読売が仕掛ける悪辣なバイアスがかかった大会が恒例となっている。走る選手に罪はないが、箱根駅伝は、正月早々毎年歪な日本の一面を象徴している。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎病院経営の闇──検査や注射の回数が多い開業医は「やぶ医者」と疑え!
◎速報!『革命バカ一代』塩見孝也氏が清瀬市議選に出馬へ!
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